広井氏の書籍で話題となる「都市型コミュニティ」
斎藤氏の書籍で話題となる「コモン」
上記を「ドット型国家」の中でどの様に実装するかを考えています。アイデアの発案者としての河合氏は「既存の自治体」の拘束を受けないとしていますが、具体化する為には「叩き台」が必要です。
そこで、江戸時代(近世)に現れた「城下町」を意図を持って設計/構築されたという点で「都市」として捉えました。
※「都市」にこだわったのは、広井氏の言う「都市型コミュニティ」として城下町は成立していたのではないかという思いがあります。
※実際に現在の日本では、人口十万以上の都市の半分以上は城下町を起源としている。『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』のでまったく的外れと言う事は無いと思う。
では、早速「城下町」(立地・構造編)ですが、(書籍:「江戸時代」(大石慎三郎著))で下記のように説明されています。
◎近世の城下町は政治経済に便のよい領地の中心に近い平野部分につくられるのが一般であったが、この城下町づくりにはその立地をえらぶにあたっていま一つ定石のようなまのがあった。それは城下町は”水につける”ということであった。近世城下町は単に領主の居城のあるところのみならず、それまで領内各地にちらばっていた家臣たちおよび商工業者が集住している一大消費地であった。その上また城下町は領内物資を集め(年貢を含めて)、またこれを領外に出し、あるいは領外物資を移入してこれを領内に流す物資の集散地でもあったので、なによりも”物質の流通の便”という事が立地の第一条件であった。
このような事情の為に、近世城下町は大河川の下流にある寄洲のような低湿地に位置することが多く、ために地下水の質が悪いので(たとえば前記福山または江戸の場合のように地下水に塩がさすこともある)、飲料水をはじめ日常の生活用水を人工的に構築した上水道に頼ることが多かった。
※「水」にこだわったのは、斎藤氏が「潤沢なコモンズ」として挙げるのが「水」であることから「コモンズ」を視点を「城下町」は備えているのではないかとの思いがあります。
◎城下町(近世領邦都市)の最大の特徴は、その立地選択から始まって、町全体の構造に至るまで、その目的のために合理的に設計造営されていることであった。それは自然発生的な町ではなく、まさに人工的な造営都市であった。
◎城下町は、城郭部分を中心にして、その外側に武家地・町地・社寺地というように、都市が四つの地域に整然と区画されていた。
【城郭部分】天守閣を中心に本丸・二の丸・三の丸といった区画からなっていた。城郭の実質的な中心部分は本丸であった。ここは江戸城をはじめ多くの城に本丸御殿と呼ばれる巨大な建造物があった。その表半分は藩(幕府)の中心的政庁となっており、藩(幕)政の主要部分はここでとりしきられるのが一般であった。また本丸御殿の奥半分は領主の私生活部分に当てられており、規模のちがいはあるが、幕府の大奥に類する生活がここで行われていた。
⇒市役所(警察/消防)等の行政施設、学校、図書館、公民館、体育館等の公共施設(公有地)
【武家地】武家地は城郭部分を中心に、それと一番近いところにつくられ、町人地・社寺地と区別された特別の区域をなしていた。
⇒病院、診療所、高齢者福祉施設。及び左記を職場とする職員の居住エリア(※職住近接)(高齢者向け居住エリア含む)※住居は公的住宅とする。(公有地)
【町地】武家地の外側に町地がつくられた。この町地は武家地・社寺地の広大さと対照的で地域が著しく狭く、家屋も立て込んだ超過密地帯をなしているのが普通で、しかも鍛冶町・紺屋町といったように、同一職種の者が同一地域に集住している事が多かった。
⇒商店街(※城下町に集まった人々の消費生活を支える施設) 及び経営者(家族)・従業員の住居エリア(職住近接)
【寺社地】町地の外側にあり、城下町の一番外郭部をなすのが社寺地であった。この地域は神社や多くの寺などを集めたところで、城下町防衛の第一線という含みももたされた。しかし、江戸時代が大変平和な時代であったので、この部分は、城下町の人々の遊楽地として利用されることが多かった
⇒城下町に集まった人々の娯楽・遊興施設・観光施設
【街づくりのポイント】
・道路を抑制ないし別用途に転換し、街の中心部に公的住宅や福祉施設等を誘導し、歩いて過ごせる街にしていく。
・従来タテワリだった「都市政策」と「福祉政策」を融合していく。
上記の視点で現存する各所の「城下町」を塗り直して…テキナ。
次回は「社会・経済編」をお伝えします。